秋田魁新報社刊 『秋田国体 栄光の記録』



秋田国体は1955年(昭和30年)の決定時から

財政赤字を理由に開催を疑問視する声も多く 中央の多くの新聞社は反対の特集記事が

掲載されるような状況下 一時は、決定取り消しにもなりながらの開催であった。


事実 財政は厳しく日本の三大貧乏県のひとつに数えられていたが

財政再建の努力の中の「明るいシンボル
 という知事の英断だった。

当時 国体開催には 13億円位かかるというのが 全国どこでも一般的な試算結果だった

ところが秋田県は 一般的な試算結果を出せるような 設備や施設が無いにもかかわらず

知事はそれを 一億円で全てを賄う様に指示を出した。


学校や企業の体育館利用し 宿泊施設は新設せず、地元の人たちの家に民宿という事になった。

その家の人たちは わずかな補助はもらったがそれに倍する手厚いもてなしをし

試合では 地元の選手より民宿している選手を応援し 体協からクレームが付いたという。



終了後 この国体を 「まごころ国体」と、各 中央紙が高く評価している記事のスクラップが 

地元紙の作ったこのグラフの最後を飾っている、国体にキャッチフレーズをつけた最初でもあった



開会式の行われた、陸上競技場 (開会式当日)



ワタクシAgXも 開会式のマスゲームで 『どじょっこ ふなっこ』を演じた。

どこにいるか、わからないどころか、なぜか練習の都度 組むメンバーが変わるという混乱状況であったが

当日は何とか無事終わった。当然、見たことも無いメンバーと組んだのはいうまでも無いが・・・。

 


外で行われたバレーボール

国体レベルの大会を外で行うのが

普通だったとは考えにくいでしょうが

青年団のハイキングでのそれは 当然のことのように

外で行っていたので 見る側に違和感は皆無だった 

 



それまで「おかず」といえば、塩辛いものが定番だったが

各婦人会単位で勉強した 

バランスのとれた食事は大好評だった。


「らいしかれ」 が 「カレーライス」と呼ぶ方が

共通語だということも知ったし スプーンで食べる方が

日本の標準らしいとも知った



その後、帰郷した選手たちとは

家族同士の付き合いをしている人も多いと聞く

秋田国体を最後に 

高度成長を背景にした 県の一年分の予算を

はるかに上回る華麗な国体へと変身してゆくと共に

ジプシー選手による開催県優勝がパターン化もしてゆく

 
 女子80メートル ハードル

 3年後に開かれた 『東京オリンピック』で、
 
 80メートルハードルでファイナリストになった
 
 依田郁子選手(東京)
などの戦い振りも記録されている
 
 11秒3の日本タイ記録だった。



 オリンピック後、しばらくしてから、依田選手は
 
 みずから命を絶った。

 また、マラソンの銅メダリスト、円谷選手も同様に
 
 自ら命を絶っている。
  
 『鬼の大松監督』がひきいて、金メダルを取った
 
 女子バレーの選手の中にも、数年後自ら命を絶った
 
 

 人もいる。

 東京という 「都市が開催」したのではあったが
 
 国を挙げてのオリンピックが与えたプレッシャーは
 
 現在、考える以上のものだったに違いない。
 
 活躍した姿をTVで観た、ワタクシAgXとしては
 
 スポーツって何なんだろうと疑問を持ちつつも
 
 心からご冥福を祈らずにはいられない。

 合掌

 









青年 五千メートル 決勝

ゼッケン47 秋田の伊藤勝悦選手が14分49秒2で優勝

「ゼッケン41 福島の円谷選手」は3年後の

東京オリンピック・マラソンで銅メダルを獲得することになるが 

この競技で入賞したかどうかの記録は「秋田国体 栄光の記録」には載っていない

このほか 東京オリンピックで活躍することになる

体操の小野選手夫妻遠藤選手などの秋田県の選手は大活躍。

東京オリンピックはすぐ目の前 

高度成長前夜 ともいえる時期だった。

 



ちなみに

ワタクシAgXもこの国体の2年後(1963)同じ会場を使用した、

中学の大会で100mを走ったが、グランドの整備状況は、

決していいとは言えなかった・・・

少ない予算で行わざるを得なかった結果だったが

国体参加の選手たちは、立派な成績を残し、東京オリンピックの

すばらしい会場で、世界の名選手たちに互して好成績を残した。











そんな状況下、ワタクシAgX(ゼッケン2)もこの大会では1位だったが、

翌年(1964)の「オリンピックに出ないか」などと言う人は

誰もいなかったのは不思議・・でもないかぁ (。・_・。)ノ

 

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